ウェイン・レイニー


ウェイン・レイニー

ウェイン・ウェスレー・レイニー(Wayne Wesley Rainey 1960年10月23日生)
 [アメリカ・オートバイレーサー]


 カリフォルニア州ダウニー出身。建設作業員の父サンディ・レイニーと母アイラの間に三人兄弟の長男として生まれた。6歳の時に父がミニバイクを買い与えたことが、モータースポーツ経歴の始まりとなった。125ccの2ストヤマハでダートトラックレースに参戦し、15歳になる頃にはその名が知られるようになった。1980年代末から1990年代初めにかけて最も成功したライダーの1人とされる。1990年〜1992年のロードレース世界選手権(WGP)500ccチャンピオン。典型的な先行逃げ切り型ライダーであり、序盤にトップを奪取した後、2位以下を引き離し独走という優勝パターンを最も得意とした(通称:レイニーパターン)。またスタートも得意とし、ポールポジション以外からでも第1コーナーの時点で順位を上げ、トップを奪取していることも多かった。

 これらは、ライバルのケビン・シュワンツが、接近戦で強さを発揮しスタートはあまり得意でなかったのとは対照的とされる。この為、2人が繰り広げたバトルは、1989年日本GPをはじめ、最終的にシュワンツに軍配が挙がることが大半であった(バトル自体がシュワンツの勝ちパターンであり、レイニーの勝ちパターンでは、そもそもバトルが起きない)。またシュワンツが、特に初期をはじめ「優勝か転倒」と形容されるスリリングな走りであったのに対し、レイニーは優勝以外のレースでも2位や3位に入り、ポイントを稼いでいた。これらから、しばしば「優勝レースがつまらない」・「堅実」と捉えられ、シュワンツより地味な印象を持たれがちだが、後輪を大胆にスライドさせる力強いライディングは、速さと安定感が高次元で両立したものであった。

 特に全盛期には、圧倒的に思える差で独走していても、流さず終盤まで全力での走行を行っていた。そのプロフェッショナル精神、全力を貫くスタイルは「ミスター100%」または「120%レイニー」と形容され、同時代に活躍したエディ・ローソン、ワイン・ガードナー、ケビン・シュワンツとともに「四強」と称される。

 1993年もレイニーはGPの中心となり、開幕からシュワンツとチャンピオン争いを繰り広げた。この年のマシンはフレームに問題を抱えており、序盤こそポイントリーダーに君臨するも、中盤には問題が深刻化。特に第6戦ドイツGP・第7戦オランダGPでは、表彰台からも遠ざかる5位に終わった。また、この年はシュワンツも安定性を身につけていた為、ポイント差はなかなか縮まらなかった。しかし第8戦ヨーロッパGPでは、改善の兆しのないフレームに見切りをつけ、市販車のフレームを使い優勝。第10戦イギリスGPでは、シュワンツがドゥーハンの転倒に巻き込まれ0周リタイヤとなる中、2位に入り8ポイント差にまで詰め寄る。第11戦チェコGPではシーズン4勝目を挙げ、第4戦スペインGP以来のランキングトップとなった。この時点で残りは3戦、シュワンツとのポイント差は11であり、4連覇は現実味を帯びつつあった。

 チェコGPに続き、9月5日にミザノ・サーキットで開催された第12戦イタリアGP。ミザノはレイニーの得意とするコースであり、3周目にチームメイトのルカ・カダローラを交わしてトップを奪い、そのまま差を拡げていた。しかし、11周目に高速コーナーでハイサイドを起こし転倒。マシンから放り出され頭部からグラベルに落下、意識不明の重体となり、病院へ緊急搬送された。その後、奇跡的に一命を取り留めたが第六頚椎損傷の重症を負い下半身不随となり、残りの2戦をキャンセルする。この年初のリタイヤだった。

 シュワンツは、イタリアGPで3位に入りレイニーを逆転。この結果、レイニー不在で迎えた第13戦アメリカGPにおいて、「タイトルは事実上シュワンツに決定」と発表されるに至った。自身初のタイトルだったが、サーキット上でレイニーを打ち負かすことに至上の喜びを求め続けたシュワンツは、「彼の怪我が治るならタイトルはいらない」との発言を残すこととなる。また、アメリカGPスタート前の500ccライダーの記念撮影では、WAYNE WISH YOU WERE HERE(ウェイン、君がここにいてくれたなら…)というプラカードが提示され、ポールポジションのドゥーハンは、グリッドでそのプレートを掲げた。また優勝したジョン・コシンスキーも、「レイニーが傍にいるような気がして頑張れた。」、「また元気な姿を見たい。」とエールを送った。

 しかし、1994年シーズンも始まろうかという頃、「下半身不随であり、再起不能」と発表されることになる。キャリア絶頂期の中、突然の引退となった。シュワンツも、ライバルを失った落胆からか以降モチベーションを低下させ、1995年序盤を持って引退することとなる。レイニーは半身不随という境遇に挫けず不屈の意志でリハビリに励み、事故翌年の1994年にはマールボロ・ヤマハ・チーム・レイニーを立ち上げ、車椅子でレース現場に復帰した。その監督業も1998年をもって退任したが、レイニーに敬意を示すライダーは現在も多い。





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