松宮一彦


松宮一彦

松宮一彦(まつみやかずひこ 1953年12月11日生)
 [アナウンサー]


 東京都生まれ。生後すぐに北海道へ移住、小学校1年生の時に東京に戻る。祖父は旧財閥系の会長で、父親は日本大学生産工学部名誉教授で、身内に日本大学スキー部の功労者がいた。中学生の時からアナウンサーになると決め、子供の頃にディスクジョッキーコンテストで4位に入る。亀渕昭信、斉藤安弘らが活躍した『オールナイトニッポン』など深夜放送ブームの頃に少年時代を過ごし、高校生の頃にはリクエストはがきをたくさん書いたほどで、後日ニッポン放送のアナウンサー試験の時に局の上の人に「あの松宮君」と覚えられていたほどだったという。獨協高等学校、日本大学芸術学部放送学科を卒業後、1976年4月、TBSにアナウンサー16期生として入社。大学では『11PM』制作アシスタントを務める。TBSの他に、ニッポン放送にも内定していたが、「テレビの仕事もしてみたかった。僕は欲張りですから」(本人談)という理由で、テレビ・ラジオ兼営のTBS(現在は分社化している)に入社した。

 TBSアナウンサー時代は、主にラジオのディスクジョッキーのほか、テレビ『ザ・ベストテン』の追っかけマンとして音楽知識の豊富さと明るく軽妙な語り口が受けて注目を浴び、TBSの看板アナウンサーに。番組プロデューサーの山田修爾とは『ザ・ベストテン』以降も音楽番組のキャスティングの相談もしており、GLAYがまだ無名の頃から、「これは買いですよ」と松宮が言っていたという。司会の黒柳徹子は松宮の事を「『ザ・ベストテン』の元祖“追っかけマン”として最初から最後まで活躍した功労者。仕事に生きがいを感じているというのが印象的でした。特番(豪華版)の時は100位から11位まで超スピードで読み上げるのが彼の仕事で、歯切れのいい元気のある発表は惚れ惚れするもの。真面目できちんとした折り目正しいアナウンサー、これが私の印象」と、『ザ・ベストテン』では黒柳と久米宏を陰で支えてくれた事も評価している。1979年4月に同局で放送したバラエティドラマ『少女探偵スーパーW』では、追っかけマンを思わせるTVアナウンサーの役でレギュラー出演した。なお、幾度かの『ザ・ベストテン』の歴代司会退任の際、小島一慶と共に後任司会者の候補に再三あがるも、諸事情があって実現しなかった。

 『SURF&SNOW』では自らのことを「TBSアナウンス部のスーパーDJ」と称していた。番組放送期間中にラジオ局アナウンス部(1983年6月29日)→ラジオ総局情報制作部アナウンス部(1988年7月26日)→報道総局アナウンス部(1989年1月25日)→アナウンスセンター(1991年5月30日)とTBSの組織改編があったため、「TBSアナウンスセンターの…」など一部の言い回しが異なるバージョンも存在する。1998年にTBSを退社。後述のような女性関係の拗れが原因だとされている。また、管理職になり自分の希望する番組に出演する機会が減り、夜のスポットニュースを担当することが多くなった。松宮は相当にニュース読みは向いていないと感じており、「気分が悪くなる」と語っていた。TBS退社後は、フリーアナウンサーとしてNACK5・TOKYO FMで番組を持つ。

 高校生の時の部活はスキー部で、スキーを嗜み、TBS入社後もアルペン種目競技大会に出場したり、個人の大会のスポンサリングを幾度となく行ったりもしたりと、明るく快活なスポーツマンのイメージで人気を集めることとなる。1990年頃の日本大学の入学案内書には、卒業生として登場し、学生時代の思い出や受験生へのメッセージと共に「競技スキーに出場、実況、解説をすべてできるアナウンサーは自分しかいない」という趣旨のコメントをしている。1998年長野冬季オリンピック大会では男子滑降競技(会場:長野県白馬村八方尾根スキー場)の会場実況アナウンスを担当した。音楽は特に山下達郎の曲が好きで、『SURF&SNOW』の第一回放送のオープニングナンバーとして『SPARKLE』をかけたほどである。また自ら「明るい鉄道少年」と公言する鉄道ファンでもあった。中学の卒業文集に「将来は鉄道公安官になりたい」と書いたほどだった。

 私生活では3度結婚したが、1人目は1977年に番組で知り合った女性と1980年に離婚。2人目は1981年にアシスタントと1983年に離婚。3人目は1988年にラジオ局関係者と1995年に離婚と、いずれも子供には恵まれなかった。1998年6月、管理職には向いていないと嫌ってTBSを退社しフリーに。約30年来の友でTBS退社以降の所属事務所社長の女性を乗せて車の運転中に交通事故に遭った。社長は重傷を負い、重い後遺症が残ったことから社長とは補償問題でもめるなど不仲となった。ただし、騒動後もこの女性の事務所に在籍した。

 1999年9月28日、自宅で首を吊り縊死しているのを、当時交際中の女性が合鍵を使って松宮の自宅に入った際に発見された。その女性は英会話学校の講師を務めていて松宮と知り合い、交際に発展したと報道された。死亡推定時刻は前日午後4時。この突然の死は、交流のあった人物に大きな衝撃を与えた。久米宏は『ニュースステーション』内で「私の9年後輩でした」と語った上でニュースを紹介し、続いて渡辺真理が読み上げた。TBSの朝の情報番組『エクスプレス』内の朝刊コーナーで、この記事を取り上げた際、松宮とラジオ番組で共演したことのあった、TBSの後輩アナでコーナー担当の長岡杏子は原稿を読み上げ、言葉にならないほど涙でかすれた。山下達郎は『山下達郎のサンデー・ソングブック』内で「なぜ相談してくれなかったのか」と無念の思いを述べた。

 今後の夢については、「僕はラジオのDJがしたいんです。2020年には1960年代から1990年代の音楽を語る番組をやりたいな」と話し、これが口癖にもなっていたという。

 1999年9月27日死去(享年45)





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