ランディ・サベージ


ランディ・サベージ

ランディ・サベージ(Randy Savage 本名:ランドル・マリオ・ポッフォ 1952年11月15日生)
 [アメリカ・プロレスラー]


 オハイオ州コロンバス出身のイタリア系アメリカ人。プロレスラーになる以前は野球選手で、1970年代前半までセントルイス・カージナルス、シンシナティ・レッズ、シカゴ・ホワイトソックスのマイナーリーグでキャッチャーとしてプレイしていた。1973年11月、野球のオフシーズンにプロレスラーとしてデビューを果たす。その後、肩の故障で野球を引退してプロレスに専念。覆面レスラーのザ・スパイダーや本名のランディ・ポッフォの名義でジョージアやフロリダ、ミッドアトランティックなどNWAの傘下テリトリーを転戦してキャリアを積み、ミッドアトランティックではドクター・フジナミこと海外修行時代の藤波辰巳とも対戦。父アンジェロ・ポッフォも主戦場としていたデトロイト地区ではザ・シークのUSヘビー級王座に挑戦した。

 1977年下期よりランディ・サベージのリングネームを用い、1978年からはアンジェロ・ポッフォが設立したケンタッキー州レキシントンの独立団体ICWに弟のラニー・ポッフォと共に参画。ボブ・ループ、ボブ・オートン・ジュニア、ロニー・ガービン、クラッシャー・ブルームフィールドらとタイトルを争った。しかし経営の悪化によりICWは解散、1983年からは同じくケンタッキーをサーキット・エリアとしていた、ジェリー・ジャレット(後のTNA創設者)が主宰するテネシー州メンフィスのCWAに転出した。CWAではジェリー・ローラーとAWA南部ヘビー級王座を巡って対戦を繰り広げ、オースチン・アイドルともインターナショナル・ヘビー級王座を賭けた抗争を展開。タッグ戦線でもラニー・ポッフォと組んでリッキー・モートンとロバート・ギブソンのロックンロール・エクスプレスとの抗争で活躍した。1984年12月30日には、後にマネージャーとなるミス・エリザベスことエリザベス・ヒューレットと結婚した。

 1985年6月8日、ジェリー・ローラーとの敗者追放マッチに敗れてCWAを去り、妻のエリザベスをマネージャーにWWFに登場。若手時代にデトロイトで邂逅したパンピロ・フィルポを模した「Oooh Yeah!!」を決め台詞にトップ・ヒールとして頭角を現し、翌1986年2月8日にはティト・サンタナからインターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取した。1987年3月29日にミシガン州で開催されたレッスルマニアIIIでは、リッキー・スティムボートと歴史に残るIC王座戦を展開。この試合でIC王座から転落するとベビーフェイスに転向し、エリザベスとの二人三脚で人気をさらに高める。1988年3月27日にニュージャージー州アトランティックシティで開催されたレッスルマニアIVのWWF世界王者決定トーナメントでは、俳優活動も始めたハルク・ホーガンを抑えメインイベントに抜擢された。ホーガンとエリザベスのサポートもあり、決勝でテッド・デビアスを破りWWF世界ヘビー級王座を獲得、名実共にWWFのトップスターまで登りつめた。1988年にハルク・ホーガンとのタッグチーム「メガ・パワーズ」を結成。8月29日のサマースラム第1回大会のメインイベントではアンドレ・ザ・ジャイアント&デビアスの「メガ・バックス」と対戦した。しかしながら、エリザベスを巡る三角関係のアングルでコンビは解散し、ホーガンとの抗争に発展していく。1989年4月2日のレッスルマニアVでホーガンに敗れ、WWE世界王座とエリザベスを同時に失う。その後はエリザベスに代わる新しい女性マネージャーとしてセンセーショナル・シェリーを帯同し、再びヒールに戻ってホーガンとの抗争を継続させる。キングを名乗っていたジム・ドゥガンを破ったことでリングネームもマッチョマンから「マッチョ・キング」に変更し、1990年代からはダスティ・ローデスやアルティメット・ウォリアーとの抗争に入った。

 1991年3月24日のレッスルマニアVIIでは、アルティメット・ウォリアーとの敗者引退マッチにて30分以上の死闘を繰り広げるも敗退。試合後、敗北をマネージャーのシェリーに責められ攻撃される。そのとき客席からエリザベスが救出に駆けつけ、2人は復縁することになる。その後は再びベビーフェイスとなり、リングネームをマッチョマンに戻すと、同年8月26日にマディソン・スクエア・ガーデンで行われたサマースラム1991にてエリザベスと結婚式を挙げた(実際には2人は1984年に結婚しているが、ストーリー上では恋人同士の関係ということになっていた)。以降は2人への祝儀にヘビを送りつけたジェイク・ロバーツとの抗争を経て、1992年4月5日にインディアナポリスで開催されたレッスルマニアVIIIではリック・フレアーを破り再びWWF世界ヘビー級王座を奪取、9月1日にフレアーに奪回されるまで約半年間保持した。しかし、私生活において同年9月18日にエリザベスと離婚すると、彼女はテレビから姿を消し、サベージも1993年からはカラー・コメンテーターが主体となり試合数は減少する。1994年にホーガンがWCWに移籍すると、同年10月に後を追うようにWCWに転出した。

 1994年に契約金600万ドル(約7億5千万円)でWCWに移籍すると、1995年と1996年にそれぞれリック・フレアーを破りWCW世界ヘビー級王座を獲得、フレアーとホーガンに次ぐWWEとWCWの両メジャーにて世界王者になったレスラーの1人となった。1996年にホーガンがケビン・ナッシュ、スコット・ホールと共にnWoを結成すると、後にサベージもメンバーとなり、nWo内でエリザベスと復縁(実生活の復縁ではない)し、ダイヤモンド・ダラス・ペイジと抗争を繰り広げた。1998年には当時のWCWのトップスター、スティングからWCW世界ヘビー級王座を奪取するが、翌日にホーガンに敗れ1日で王座から転落した。nWoとホーガンに不満を持ったサベージはナッシュと共にnWoウルフパックを結成し、ウルフパックは人気爆発となるがサベージは怪我のためほとんど試合に出場することはなくテレビから姿を消した。1999年にニュールックで復帰すると、新しいガールフレンドのゴージャス・ジョージをマネージャーに迎えると7月にはケビン・ナッシュを破り、4度目のWCW世界ヘビー級王座に就き、8月にはNBAの問題児デニス・ロッドマンとの一騎打ちを制すなど、健在振りをアピールした。2000年に入るとホーガンや他の大御所レスラー達と共にミリオネアーズ・クラブなるチームを結成するも、nWoほどのブレイクにはならずに、契約が切れると共にWCWを離脱した。

 しばらくフェードアウトした後の2004年12月5日、TNAのターニングポイントに登場。ジェフ・ハーディー&A・J・スタイルズとトリオを結成し、ザ・キングス・オブ・レスリング(ジェフ・ジャレット、ケビン・ナッシュ、スコット・ホール)と対戦したが、交渉の決裂によりサベージのTNA出場はこの1試合のみにとどまった。晩年はプロレスはセミリタイア状態となり、ラップミュージシャンとしても活動していたが、2011年5月20日朝、フロリダ州のハイウェイで自動車を運転中、心臓発作を起こしてコントロールを失い木に衝突、ラルゴ・メディカル・センターに運ばれたものの容体が悪化し死亡が確認された。没後の2015年、WWE殿堂に迎えられた。

 2011年5月20日死去(享年58)





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